いすのあゆみ

日々の記録です。

2022年9月3日

2022年9月3日

 

もうすぐで、大学院入試。合格するために、日々語学と文学史に向きあう。

語学はとても大変。地味なことをひたすら繰り返す。英文を読むときは、わからない単語を辞書で調べるのはもちろんだけれど、知っている単語を調べる。一見、既知の単語でも、自分が知っている意味(ただの思い込み)では、文脈に合わないものがある。だから、「book」のような誰もが知っている単語でも、合わないことがある。bookには「本」という意味合いだけでなく、「予約をする」という意味合いもある。

文学作品やエッセイなどで書かれている英文を読んでいるときは、ひたすら自分の知識を疑いながら読む。「あれ、内容がよくわからない」みたいなことは、よくあることだ。そういうときは、「なんだよ、この本!しっかりしろよ」みたいなことを思うのではなく、「おれには知らないことがたくさんあるんだな、よし調べよう」みたいなスタンスになったほうがいい。そのほうが、自分の英語への見方を変えていくことができる。意固地にならず、出会ったものには柔軟に向き合ったほうがいい。そのほうが、おもしろく、広がりがあり、自分のためになる。

 

和文英訳と英文和訳に取りくむ習慣をつけようとしている。これが大変。日々、続けるために試行錯誤をしている。そんな日々のなかから、少し気づいたことがある。

なにかを続けるためには、「意思」、「努力」、「頑張る」という言葉で自分を奮い立たせるのではなく、「積み重ね」、「楽しむ」、「習慣」という言葉のほうがいい。僕が根性論みたいなものを嫌っているからかもしれないが、言葉を変えるだけで、習慣化しようとしているものを行おうとするときのためらいは、ぐんと軽くなる。とても不思議だ。方法だけでなく、物ごとへの考え方を柔軟に変えていくことも大切なのかもしれない。

 

朝、年森瑛さんの「N/A」を読みとおした。

TSUTAYAをうろうろとしていたとき、「第167回芥川賞候補作」と書かれた帯をみて、衝動買いをする。友人に「おもんなさそう」と言われたので、「読んでから、言えよ」と返す。我ながら、いい返しだと思う。冗談交じりに言おうとしたが、すこし本気のトーンで言ってしまったのは反省だが。

この小説を読み終えてから、思うことは、僕たちは言葉に振り回されいるのではないかということだ。他人から何かを言われたとき、なにも考えていないと、ありきたりな言葉で返してしまうことがある。

「明日の仕事、行きたくない」と親に言われたとき、「がんばって」と言うと、「がんばりたくない」と返されたことがある。そのときの「がんばって」は、なにも考えていないありきたりな言葉だ。この出来事を経験してから、言葉をパターン化するのをやめようとしている。ありきたりな言葉を使うのではなく、「自分の言葉」で話すようにしている。だが、これは簡単なことではない。

「自分の言葉」を頭のなかで考えるようなってから、今までに自分は「ありきたりな言葉」に操られていたんだなと気づいた。今でも、言葉に詰まったとき、疲れているとき、ありきたりなことを言ってしまうことがある。おそらく、これは、生きていく上で、ずっと悩みるつづけることなのかもしれない。