いすのあゆみ

日々の記録です。

1月3日 文学と語学の日記

1月3日 晴れ

 

この日もひたすら卒論の執筆。客観的に文章を書くことはつかれる。だが、自分のなかにある先入観を疑うには、大切なことだろう。

男性の友人で化粧をしている人がいる。肌荒れをみせないために、なにかを塗っている。その友人から「おれ化粧してるねん」と教えてもらったとき、「そうなんや、いいやん」と返した。この返答は僕の本音だ。

化粧をすることは、自分の外面を磨き、自信をつけることにつながると思う。だから、誰もがメイクをしてもいい。僕はそう考えている。

でも、「男やのに、化粧するのか…」と思う「自分」もいる。このようなことは考えたくないのだけれど、「男やのに」という思考がつきまとう。「男が化粧をしてはいけない」というのは根拠がないものだ。男が化粧をすることで誰かが傷つくわけでもない。でも、なぜか「男やのに」と思ってしまう。思いたくないけれど、思ってしまう。性別どうこうの話をする際、じぶんの中には、2人の「自分」がいる。思い込みを失くそうとする「自分」と、先入観にしばられた「自分」。

これをふまえると、ほんとうの「自分」というものが分からなくなってくる。だが、この分からなさはイヤではない。ひとつの身体のなかに、複数の「自分」がでてくる瞬間はおもしろい。物ごとをフラットにみる「自分」になりたいという思いはある。

つぎに、「勉強」という一単語をみると、人がペンを持ちながら机にへばりついている様子を思い浮かべてしまう。だからか、何かを勉強する際は、じぶんも同じように机に向かわないといけないと思ってしまう。

誰がそうしないといけないと決めたのだろうか。自分の見方でじぶんを縛り付けているのではないだろうか。これに気づいてからは、ソファで寝ころびながら勉強をするようになった。「思い込み」から自由になる瞬間はおもしろい。

1月2日 文学と語学の日記

1月2日 曇り

卒業論文の執筆のため、語学や文学に時間を使うことができなかった。昼間はひたすら卒論を書いて、疲れたら専門書を読む。この繰り返し。中旬まではがんばろう。それ以降は、文学を読み、語学をがんばる。

就寝前は、詩を読むようしている。この日は、長田弘さんの『深呼吸の必要』をよむ。2回目の再読。長田弘さんの詩は、自分のこころの深いところまでくる。言葉にできなかったものが書かれている。また、自分で言葉にしたけれど、洗練されていない自分の「言葉」をはるかに上回る「ことば」で書かれていたりする。

深呼吸の必要』ではないが、『死者の贈り物』には頭から離れない「ことば」がある。

    「一人の人間のなかには、すべての人間がいる」

               (長田弘『死者の贈り物』ハルキ文庫 2022:p59)

自分をふかく知ることは、他者を知ることにもつながるのだろう。みんな同じもの(感情や思考など)を持っているのではないだろうか。人によって、強度がちがうことがあると思う。

小説を読むと、「共感力」が養われると聞くことがある。僕は読書をしているが、なぜその力がつくのかよくわからなかった。自分に共感力があるのかもわからない。だが、ここ最近になって、小説を読むことは自分を知ることだと思うようになった。たまに、なにも理解できない小説がある。そのようなものを読んでいる際、そこに登場する人物たちに寄り添いながら読む。つまり、「共感できるか」という物差しで読むのではなく、「自分のなかに同じような感情や思考があるのか」と探りながら読む。ときには、目を背けたくなる「自分」に気づくことがある。だが、それを受け入れることも大切だと思う。目を逸らすよりも、それを認めようとすると、自分のこころの幅が広がるのではないだろうか。これを繰り返していくことで、人間のなかにある普遍的なものを知ることができると思う。共感力を養うということは、あらゆる「自分」に気づき、受け入れることだろう。

 

 

 

文学と語学の日記 2023年1月1日 

1月1日(日) 晴れ

洋書(70分) 和書(112分) 文学の本(32分) 詩(29分)

 去年に日々のことをつづる日記を始めた。寝る前だと書けないので、毎朝、昨日のことを大学ノートに書きつづけた。日記のおかげか、どのような生活をするか考えるようになった。時間の使い方や自分の言動、周りの人たちのことについて。

2023年は日々の日記だけでなく、読書や語学についての日記もつけていきたい。自分の「好きなこと」をふかく考えるきっかけなれば、嬉しいと思う。自由に書いていきたい。

1月1日はずっとソファで寝ころびながら、本を読んだり、スマホを眺めていたりした。この日最初の本は、『小説的思考のススメ』。3回目の再読になる。「小説を読む」という行為について考え始めたころ、初めて手に取った本。

つぎに、夏目漱石の『草枕』を読む。注釈が多いためにすらすらとは読めない。自分は近代文学を読み慣れていないのだろう。見慣れない漢字も多いが、とりあえず読み進める。

ドストエフスキーの『罪と罰』の英訳を読もうとする。読みやすいが、すこしクセがある。日本語からの英訳とはまた違うクセ。ロシア語を知らないので、なんとも言えない。ドストエフスキーといえば、『カラマーゾフの兄弟』を途中まで読んだことがある。全部読めばよかった。英訳だと、800ページぐらいだった気がする。

英語を読んでいると、眠たくなってきた。昼寝を1時間ぐらいする。寝ているとき、親に話しかけられたが、無視をしてしまう。意図的なものではなく、ほとんど寝ている状態だったからだ。だが、話しかけられたことには気づいた。

「この服ビリビリやから、捨てとくで」

起きた後、『女の星の園』を読む。これはマンガ。シュールなギャグ漫画といえばいいのだろうか。

太宰治の『人間失格』を読む。4回目の再読。周りの期待に応えようとし続けることで、自分自身の欲求がわからなくなるのだろう。たしかに自分にもこんな経験があった。卒論の相談の際、大学の先生に「自分を誤魔化さんことやな」と言われたときから、生きるのが楽しくなった。長年の間、「道化」とはいえないが、まわりに好かれようとして生きていた。あのときは息苦しかった。

晩御飯を食べたあと、キングの『11/22/63』を読む。キングの英文は単語がむずかしい。知らない単語をみつけたとき、それらをノートに殴り書きする。青いペンで。主人公がスーパーをうろうろとする場面で、「summers」をみつける。「summer」という単語にsをつけると、「~歳」という意味合いになるらしい。

寝る前に「詩」を読む。長田弘さんと茨木のり子さん、工藤直子さんの詩集をめくる。なにかを感じた詩のページにふせんをつける。あとから読みかえすために。

 

 

語学日記 2022年9月7日

7 September

 

Althought I have been bad at writing in English, little by little I came to find an enjoyment from doing so. And,  I have desire to read a novel written in English more than before. 

Today I had read the work of Bram stoker, 「Dracula」,for fifty minutes. The novel is narratived by characters keeping a diary.  Reading the novel, I had found a phrasing "journal" at the begining of sections. The phrasing meanes "diary".Seeing "journal" ,  I usually think of magazine. 

I wanted to write more frely something in English.

 

2022年9月5日

9月5日 晴れ

 

午前は、英作文と文学史を学ぶ。午後は、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」読み、英文和訳と和文英訳をおこなう。とても大変。英語をつかう力があまりにもないな、と思う日々。でも、これからのじぶんのためになることだから、挫折する気はまったくない。

 

「おまえ、どんな時間の使い方してんねん」みたいなことを思われる、言われる人間になりたいな、とおもう。いい意味で。

どんだけ本読んでんの?どんだけ映画みてんの?どんだけ漫画読んでんの?どんだけネットサーフィンしてんの?みたいな、一日のほとんどを好きなことに費やしている人間になりたい。とりあえず、SNSはみない方がじぶんのためになる。僕だけかもしれないが、SNSを30分ほどみてしまったあとは、あたまのなかに「虚しさ」しか残らない。たまに、おっとなるものを見つけるが、それまでに莫大な時間がかかる。おっとなるもののために、時間をつかうより、本や映画、漫画にふれるほうが、おっおっおっとなることができる。あたまのなかにこびりつく。

が、だれかにこう思われたい、みたいな考えを持ってしまっている自分を変えたほうがいい。自分がどうしたいか、が大事だろう。だれかにどう思われるかを考えてしまうと、自分を「型」にはめこんでしまう。それはイヤだ。自分がどうしたいかを考えよう。

僕がしたいことは、自分の好きなもの、納得できるものたちで、からだとこころのなかを満たしていきたい。たくさん小説を読んで、さまざまな人間を知る。たくさんのエッセイ、新書をよみ、さまざまな考え方を知る。そして、自分の物差しだけでなく、公平な物差しで、人間や物ごとを見たい。

2022年9月3日

2022年9月3日

 

もうすぐで、大学院入試。合格するために、日々語学と文学史に向きあう。

語学はとても大変。地味なことをひたすら繰り返す。英文を読むときは、わからない単語を辞書で調べるのはもちろんだけれど、知っている単語を調べる。一見、既知の単語でも、自分が知っている意味(ただの思い込み)では、文脈に合わないものがある。だから、「book」のような誰もが知っている単語でも、合わないことがある。bookには「本」という意味合いだけでなく、「予約をする」という意味合いもある。

文学作品やエッセイなどで書かれている英文を読んでいるときは、ひたすら自分の知識を疑いながら読む。「あれ、内容がよくわからない」みたいなことは、よくあることだ。そういうときは、「なんだよ、この本!しっかりしろよ」みたいなことを思うのではなく、「おれには知らないことがたくさんあるんだな、よし調べよう」みたいなスタンスになったほうがいい。そのほうが、自分の英語への見方を変えていくことができる。意固地にならず、出会ったものには柔軟に向き合ったほうがいい。そのほうが、おもしろく、広がりがあり、自分のためになる。

 

和文英訳と英文和訳に取りくむ習慣をつけようとしている。これが大変。日々、続けるために試行錯誤をしている。そんな日々のなかから、少し気づいたことがある。

なにかを続けるためには、「意思」、「努力」、「頑張る」という言葉で自分を奮い立たせるのではなく、「積み重ね」、「楽しむ」、「習慣」という言葉のほうがいい。僕が根性論みたいなものを嫌っているからかもしれないが、言葉を変えるだけで、習慣化しようとしているものを行おうとするときのためらいは、ぐんと軽くなる。とても不思議だ。方法だけでなく、物ごとへの考え方を柔軟に変えていくことも大切なのかもしれない。

 

朝、年森瑛さんの「N/A」を読みとおした。

TSUTAYAをうろうろとしていたとき、「第167回芥川賞候補作」と書かれた帯をみて、衝動買いをする。友人に「おもんなさそう」と言われたので、「読んでから、言えよ」と返す。我ながら、いい返しだと思う。冗談交じりに言おうとしたが、すこし本気のトーンで言ってしまったのは反省だが。

この小説を読み終えてから、思うことは、僕たちは言葉に振り回されいるのではないかということだ。他人から何かを言われたとき、なにも考えていないと、ありきたりな言葉で返してしまうことがある。

「明日の仕事、行きたくない」と親に言われたとき、「がんばって」と言うと、「がんばりたくない」と返されたことがある。そのときの「がんばって」は、なにも考えていないありきたりな言葉だ。この出来事を経験してから、言葉をパターン化するのをやめようとしている。ありきたりな言葉を使うのではなく、「自分の言葉」で話すようにしている。だが、これは簡単なことではない。

「自分の言葉」を頭のなかで考えるようなってから、今までに自分は「ありきたりな言葉」に操られていたんだなと気づいた。今でも、言葉に詰まったとき、疲れているとき、ありきたりなことを言ってしまうことがある。おそらく、これは、生きていく上で、ずっと悩みるつづけることなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

英書と仲良くなりたい

ずっと英書と格闘している。僕は手をひろげて、歓迎をしているのに、英書はずっと牙をむいてくる。

ハリーポッターシリーズを読み始めたとき、あまりにも内容がわからず、「おい、日本人で原文の全巻を読んだやつおるんか?」と声に出してしまった。ツイッターをみると、読破した日本人はたくさんいた。

スティーブン・キングの作品を読んでいたとき、コンタクトが取れそうになった。「なんやねんこの単語」みたいなものが、たくさん書かれている。単語帳ではお目にかかれないものばかりだ。いくつかの単語を辞書で調べてみると、「ちょっと、こんな言葉使ってもいいの?」と思ってしまった。覚えたとしても、使うのをためらう。

ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」の英文に目をとおしたときは、笑ってしまった。単語は難しくないのに、なにも読めない。「これが、英語の本性か」と思い、笑えてきた。いま読み返しても、難しすぎて口角が上がってしまう。

 

2年以上、洋書をどのように読むか悩んでいます。どうしよう。どうしましょう。