いすのあゆみ

自由に何かを書けるようになりたいです。

英書と仲良くなりたい

ずっと英書と格闘している。僕は手をひろげて、歓迎をしているのに、英書はずっと牙をむいてくる。

ハリーポッターシリーズを読み始めたとき、あまりにも内容がわからず、「おい、日本人で原文の全巻を読んだやつおるんか?」と声に出してしまった。ツイッターをみると、読破した日本人はたくさんいた。

スティーブン・キングの作品を読んでいたとき、コンタクトが取れそうになった。「なんやねんこの単語」みたいなものが、たくさん書かれている。単語帳ではお目にかかれないものばかりだ。いくつかの単語を辞書で調べてみると、「ちょっと、こんな言葉使ってもいいの?」と思ってしまった。覚えたとしても、使うのをためらう。

ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」の英文に目をとおしたときは、笑ってしまった。単語は難しくないのに、なにも読めない。「これが、英語の本性か」と思い、笑えてきた。いま読み返しても、難しすぎて口角が上がってしまう。

 

2年以上、洋書をどのように読むか悩んでいます。どうしよう。どうしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

身近なものの揺らぎ

大学へ入学後、ひとりで行動する人は変みたいな雰囲気があった(僕の思い込みかもしれない)。僕はすぐに人と仲良くなれるほど器用な人間ではない。だから、ひとりで行動することが多かった。こじらせたのか、思い切って他の人とは違うように行動しようと思った。電車の改札口でにはなぜかみんな同じところに並ぶから、ぼくはみんなが通らない改札口を行き来していた。みんな授業中に携帯を触るから、ぼくは携帯の電源を切って、先生の話を耳で受け流すか寝るようにしていた。

日にちが経つにつれて、友だちが少しずつできてきた。そこで、なぜか僕は安心していた。周りと同じように誰かと授業を受けて、ご飯を食べて、自分たちの地元の話をしたりして、安心していた。そして、ひとりで行動している人を見ると、すこし見下してしまう。なんで見下すの?と自分に聞きたくなる。ふたりの自分がいる。反射的に嫌なことを考える自分とそれを諭そうとする自分。

 

村田紗耶香さんの「コンビニ人間」を手に取ったきっかけは、「コンビニ」という名前が入っているからだ。ぼくはアルバイトでレジをしている。だから、自分と照らし合わせながらよめるかなと思い、読み始めた。正直のところ、1周目は変な女の人がコンビニでのびのびとしているな、ぐらいの感想しか出てこなかった。

あまり詳しくは言わないけれど、その後に自分のことを今まで以上に考える時期があった。そのおかげで、いい意味で自分の中にある価値観が崩れていった。いまの自分なら見方が変わるんじゃないか、と「コンビニ人間」を読み返した。確かに、一周目とはまったく違う物語になっていた。主人公が正常なのではないか、と思うようにもなった。

 

「コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。世界が縄文だというなら、縄文の中でもそうです。普通の人間にという皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを出だされることも、邪魔者扱いされることもない」

「何を言っているのかわからない」

「つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」

 

(九五ページ)

ゾッとしたのではないだろうか。この場面を読んだとき、ぼくはぞっとした。怖いということではなく、村田紗耶香さんの鋭さに驚いた。「驚いた」という言葉では弱い、胸騒ぎを起こしたのほうがいいのだろうか。「皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです」は特に面白い。「普通」とは何か、を考えてみると、いまいち納得できるものが思い浮かばない。

「普通」という身近なものの異常さに気づくきっかけになる。「コンビニ人間」という作品は、現代文学で最高傑作ではないだろうか。

いいものを書こうとする

いいものを書こうとすると、だいたい何も書けない。

そこから無理やり書いても、楽しくない。そして、もし書けたとしても、どこかで見たような文章、内容になってしまう。ははは。

自分のブログの記事を読み返すと、「面白くないな」と思うものがある。だいたい面白くないものは、いい子ぶって書いたもの。9割以上はそうかもしれない。逆に、「面白いな」と感じるものは、素直に書いたもの。書いているときは楽しかった。

ははは。

 

母親に大学のレポートをみせると、「かっこいい文章だね」と言われた。論文調で書いているから、確かに、小難しくかしこまった文章になっている。僕はやわらかい文章を書けるようになりたい。だから、「かっこいい文章」と言われ、嬉しさ4割、悔しさ6割を感じた。

僕が尊敬している作家さんは、吉本ばななさん、いしいしんじさん、小川洋子さん、宇佐見りんさんだ。ほんとうはもっといるけれど、自分の中の四天王を挙げてみた。みなさんとても柔らかい文章を書かれる。

 

「わたしはアップルパイの白い箱を胸の前で抱え、不運な偶然が二度続いたことにため息をついた。そして熟れすぎたトマトのようにつぶれてしまった筋肉や、砂利の間にはりついた髪の毛や、枕木の上に転がっている骨のかけらを思い浮かべた」

小川洋子「妊娠カレンダー」文春文庫 1994 p113、114

 

この美しい文章は、小川洋子さんにしか書けないと思う。線路で起こった人身事故の現場を、主人公が想像している場面だ。

彼女は、悲惨な状況をやわらかい言葉で表現している。「熟れすぎたトマト」、「転がっている骨のかけら」のような言葉選びには、「巧っ!」と思ってしまう。「熟れすぎたトマト」の比喩はたまらない。トマトは身近にあるのに、なんで自分はこんな面白い比喩が思い浮かばなかったんだと思う。

身近にあるもの、汚いと思ってしまうものに美しさを見いだせるような人間になりたい。

 

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小川洋子「妊娠カレンダー」

 

表題は芥川賞受賞作品です。本ブログで引用した文章は、文庫本に収録されている「ドミトリィ」からのものです。

 

吉本ばなな「キッチン」

 

平易な日本語だけれど、個性がある文章で書かれています。平易で「らしさ」を出せる、吉本ばななさんには頭が下がるばかりです。

 

いしいしんじ 「麦ふみクーツェ」

 

平仮名の美しさを、僕に気づかせてくれた作家さんです。ツイッターをとおして、いしいしんじさんは、読者個人に「ありがとうございます」と伝えているようです。ずっと応援し続けたい。

 

宇佐見りん「推し、燃ゆ」

彼女の文章も大好きです。電車のドアが開くことを、セミの声が大きくなると書いていて、感激してしまいました。「自分の言葉」を大切にしている作家さんです。

 

いまのこと

冬から春に移りゆく。

ぼくはこの時期が好きだ。家の中と外のあたたかさは変わらない。上着もいらない、半袖になることもない。身体に身につけているものは、分厚くもなく薄くもない。ちょうどいい。地球がぼくを歓迎してくれているような気持になる。

 

リビングのソファに正座をして、ぼくは本を読んでいる。そんなとき、たいてい犬はぼくの右横にもぐり込んでくる。ぼくの腕と横腹のあいだに身体をいれてくる。そして、1周するかのように身体を動かし、こちらにお尻を向けてくる。ぼくに身を任しているみたいに。

でも、たまに犬はソファに上らない。ぼくの目に入るように前で座り込む。これは、「散歩に連れていけ」の信号を出している。いや、「散歩に連れて行ってやろう」かもしれない。そのとき、ぼくは本にしおりを挟まず、開けたまま横に置く。そして、立ち上がると、犬は首をぴくっとさせる。玄関に向かうと、後ろからカタカタカタと爪音が聞こえてくる。

玄関のドアを開け、いぬと共に外へでる。地球がぼくたちを迎えてくれる。でも、世界は違うかもしれない。

 

「コンビニでチョコを買う」

じぶんは犬に負けたらしい。

バレンタインということで、近所のひとからお菓子をもらった。チョコではなく、ケーキ。なぜ、チョコじゃないんだ?

どうやら、ぼく宛ではない。渡す相手は、ぼくと同居している”犬”らしい。なるほど。くせ毛のぼくは0個で、いつもこちらに尻をこすりつけてくる犬は1個。くせ毛野郎は犬に負けた。

 

村田紗耶香さんの「コンビ二人間」を再度読み始めた。コンビニに生きがいを感じている主人公の様子が描かれている。

夕方ごろ、この本を片手に散歩した。とりあえず、近所のセブンイレブンへ向かう。読書中の本に影響を受けたわけではない。おそらく。そこで緑茶とアルフォート、なぜか青ボールペンと小さいノートを購入した。久しぶりに、商品を袋に入れてもらう。会計後は、店員さんに「ありがとうございました」と満面の笑みで言おうと心がけている。心がけている。小銭を入れて、店員さんからレシートとお釣りをもらう。そして、ぼくが持っていきやすいように、持ち手がねじられた袋を手に取る。よし、満面の笑みで「ありがとうございました!」と言おう。

無理だった。「ありがとうございました」は言えた。でも、口角が上がっただけで、笑みを作ることができなかった。じぶんで顔を引きつらせただけだった。

 

コンビニを出た後、田んぼへ向かう。少し坂になっている草むらを見つけた。とりあえず、そこに座る。そして、アルフォートと文庫本を手に取った。夕日を眺めながら、半分ほど食べる。そして、「コンビニ人間」の続きを読み始めた。新人アルバイト、白羽さんの暴れっぷりが書かれている。夕日を浴びて、にやにやしながら、ぼくは本を読む。

 

 

 

読む読む読む

アルバイト先と家を往復する日々。なにもない日はずっと家にいる。どこかには行きたい。でも、行きたい場所がない。

今日も、家で本を読む。アンデシュ・ハンセンさんの「スマホ脳」を読んでから、自分がいる部屋からスマホを追い出すようにしている。追放前は、寝る前に「1日を無駄にしたな」と思うことがあった。しかし、追放後にはそのように思わなくなった。むしろ、早く寝たい。

これが良いことか悪いことかは判らない。でも、いままでと違うことはわかるので、スマホを追放し続けてみる。

 

一昨日に、ディケンズの「Great Expectations」を読み終えた。400ページを超える19世紀の作品を読みとおすことは、良い経験だ。

ぼくにとって、19世紀の英文を読むことは、骨が折れることである。しかし、この時代の英文を楽しく読めるようになるためには、19世紀の英文を読むしかないと思う。文法書や辞書を使いながら、気になる作品を読み続ける。それを何か月も、何年も継続するしかない。

雑記6

ツイッターでもこのブログでも、できるだけ自分を偽らずに、文を書くようにしている。昨晩は、村上春樹さんの文体に寄せながら、ぼくがサンシャイン池崎さんに似ていることについてツイッターに投稿をした。内容は偽ってないけれど、文体は偽っている。早速、自分ルールが崩壊している。

 

「やれやれ、どうやら僕はサンシャイン池崎に似ているらしい。もしかしたら、彼が僕に似ているのかもしれない。」

 

我ながら、アホな投稿だと思う。

「やれやれ」の使い方が間違っているかもしれないし、2文目の語尾の「かもしれない」もなぜか違和感がある。「かもしれないな」のほうが良いだろうか?