いすのあゆみ

日々の記録です。

身近なものの揺らぎ

大学へ入学後、ひとりで行動する人は変みたいな雰囲気があった(僕の思い込みかもしれない)。僕はすぐに人と仲良くなれるほど器用な人間ではない。だから、ひとりで行動することが多かった。こじらせたのか、思い切って他の人とは違うように行動しようと思った。電車の改札口でにはなぜかみんな同じところに並ぶから、ぼくはみんなが通らない改札口を行き来していた。みんな授業中に携帯を触るから、ぼくは携帯の電源を切って、先生の話を耳で受け流すか寝るようにしていた。

日にちが経つにつれて、友だちが少しずつできてきた。そこで、なぜか僕は安心していた。周りと同じように誰かと授業を受けて、ご飯を食べて、自分たちの地元の話をしたりして、安心していた。そして、ひとりで行動している人を見ると、すこし見下してしまう。なんで見下すの?と自分に聞きたくなる。ふたりの自分がいる。反射的に嫌なことを考える自分とそれを諭そうとする自分。

 

村田紗耶香さんの「コンビニ人間」を手に取ったきっかけは、「コンビニ」という名前が入っているからだ。ぼくはアルバイトでレジをしている。だから、自分と照らし合わせながらよめるかなと思い、読み始めた。正直のところ、1周目は変な女の人がコンビニでのびのびとしているな、ぐらいの感想しか出てこなかった。

あまり詳しくは言わないけれど、その後に自分のことを今まで以上に考える時期があった。そのおかげで、いい意味で自分の中にある価値観が崩れていった。いまの自分なら見方が変わるんじゃないか、と「コンビニ人間」を読み返した。確かに、一周目とはまったく違う物語になっていた。主人公が正常なのではないか、と思うようにもなった。

 

「コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。世界が縄文だというなら、縄文の中でもそうです。普通の人間にという皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを出だされることも、邪魔者扱いされることもない」

「何を言っているのかわからない」

「つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」

 

(九五ページ)

ゾッとしたのではないだろうか。この場面を読んだとき、ぼくはぞっとした。怖いということではなく、村田紗耶香さんの鋭さに驚いた。「驚いた」という言葉では弱い、胸騒ぎを起こしたのほうがいいのだろうか。「皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです」は特に面白い。「普通」とは何か、を考えてみると、いまいち納得できるものが思い浮かばない。

「普通」という身近なものの異常さに気づくきっかけになる。「コンビニ人間」という作品は、現代文学で最高傑作ではないだろうか。